サブカル回顧録

ゲームやコンピュータ等、一昔前の語り草

五健beatmaniaと弐寺の初期の頃

すでに世代交代も数回起こってる音ゲーだけど、自分が初めてゲーセンでプレイした時のことを少々話してみようと思う。予めいうと20年近くまえです。

そもそも、音ゲーは全く興味がなくて普通に格ゲー等を楽しんでいたんだけど、たまたま当時の彼女から一度やってみたら?と言う感じで手を出したのが始まり。ちなみにその時のバージョンはbeatmania3rdmix。もちろんPS版も出る前で本当にアーケード版の3rdが出て間もない頃。

最初に選んだ曲はいまいち覚えてないけど、全然わかんなくてどれ選んでいいか聞きながらやってたと思う。find outやbegining of lifeあたりだったはず。とにかく三曲目にdj Battle選んで撃沈したことだけは鮮明に覚えてる!なにせ撃沈された瞬間となりで大笑いされたから(´・ω・`)

それがスタートでしたかね。結局その後全部クリアーしましたが、この3rdはGreatコンボが初採用されたバージョンだったこともあってかなり人気を博してました。またユーロビートLuv to meが初採用されたバージョンでもあります。2ndはこのあとやってみたけど少し落ち着いた感じの曲が多かったことにたいして、3rdはポップス系のダンスミュージック系が追加されていてどっちかといえばとっつきやすい曲目になってたというのもあるんでしょう。当時は大人気でどのゲーセンに行ってもだいたい2~3人待ちでしたね。この状況が次回バージョンが出るぐらいまで続いていました。とにかく当時の音ゲーは1作ごとの寿命が長かったんです。もちろんバージョンアップ頻度も今と違って一年以内でしたが、それを差し引いても稼働率は相当でした。

またワンプレイ200円ということもあり、プレイ時間は少々かかるものの、インカム的には非常に取りやすいゲーム機でもありこぞってオペレーターはいれていたものです。

なおこれにドハマリした自分はその後BM98に流れ、BMS曲まで自作したりしてどんどんコアな世界に進んでいきました。BMS曲を作ったのはやりたい曲を誰も作っていなかったからと言う単純な理由から。自分がやりたいから自分で作っていたということ。

結局その後音ゲーは大幅にラインナップを増やして今に至っています。最古参のbeatmaniaはすでに終了し、その後出たDDRも新作が出るものの置いているゲーセンを見つけることが難しい状況。特に地方ではなかなか厳しくなっている中、beatmaniaIIDX(通称弐寺)は初出が1999年。なんと20年以上も新作が出続けるという普通では考えられない長期稼働となっています。ちなみに最初はこの弐寺。ワンプレイ300円、ダブルプレイ500円でした。その後ワンプレイ200円、ダブルプレイ400円となって安くなった!って勘違いするぐらい。さらにワンプレイ200円、ダブルプレイ300円になると素晴らしい!とまで言われていたw。今はワンプレイ100円強でダブルプレイも同価格で落ち着いてるんですけどね。

なお、弐寺のピークは4thから5thぐらいまでだと思います。ちょうどアーケードの4thが出る前後で家庭用の3rdがPS2で発売されて一気に人口が増えた感じです。それ以降は少しずつ減って家庭用は6thで一旦打ち止めになる。家庭用の6thはかなり遅れ気味に発売されたため、当時不穏な空気が流れ始めていたのは確か。またアーケードは9thのシステム改変で一気に減少。ただここで少し世代交代が起こってます。その後盛り返してGold前後で2回目の世代交代が起こった感じです。Tricoro前後でで3回目が起き、それ以降は少しずつ減少しながらという感じですかね。

ピーク時の4th時代は本当にすごかった。弐寺に順番待ちで5人とか本当にザラで、新宿の今は無きチルコポルトに至っては一回に弐寺が置いていたんだけど、土日はごった返していたぐらいで本当にすごかった。この頃はエキスパートコースの選曲が本当にすばらしくて、思い出すだけでも表コースのEURO、1stSpecial、HYPER、djTAKA。裏コースのNAOKI、HELL、3rdSpecial、Milleniumと選曲も絶妙でまた、1stでのボスコースともいわれたSpecialコースが3rdではCelebrateの削除により実現できていなかったのが4thではCelebrateの再収録により再降臨。ハイスピードも導入された初めての1stSpecialコースは当時かなり楽しませていただきました。すでに当時からダブルプレイで遊んでいたので、特に1stSpecialとHYPER、3rdSpecialは相当やり込みました。家庭用の3rdが出ていたことでだいぶ自力も上げやすくなってきてたんですよね。

その後5th、6thと進化していくも少しずつ客が減っていく感じは感じました。4thの時のあの熱狂ぶりを知ってるだけに余計にわかるんですよね。家庭用が一旦打ち止めになったときは「あ~仕方ないよな~あれじゃあなあ」って思ったぐらい。それを思うと本当に制作側は頑張って盛り返したんだと思う。なにせあのときはまさか20年以上続くとは思っていなかったよ。そう思うと時代時代でうまく変化していって本当に息の長いゲームになったんだなって思います。思えば1stのときはまじで客がいなくて、俺を含めたごく一部のゲーセンの常連だけがやってるという凄まじい状況だったことを考えると血反吐がでるぐらい開発側は頑張ったんでしょう。

初期の頃を語るつもりが少し横道それちゃったけど、弐寺の初期のころはこんな感じでした。あと五健は4thで少しフォーマット変更をしてお客が減ったのと同時に弐寺の2ndぐらいから少しずつ弐寺に移動していった感じ。最終的には予定通り終了したという感じじゃないですかね。むしろよく続いたなって思います。上位互換の弐寺があったのに結局5年近くは動いていたわけだから。

ちなみに五健初めて結局続いた理由は当時Luv To Meがどうしてもクリアーしたかったから。縦連打がひど過ぎでつらい曲なんだけど、これをクリアーしたくてやり込んでたぐらい。よくSuper Highwayって人が多いんだけど、俺はLuv To Meでしたね。

弐寺は特にやる気はなかったんだけど、当時プレイしてるのをなんとなく見てたらこっちもLuv to meがどうしてもクリアーしたかったから頑張ってプレイし始めた。そしてLuv to meがクリアーできたら今度は1stのボスEXコースでもあるSpecialコースを越したい!って思いだけでさらに続けたと言う感じ。結局シングルプレイでは最終的に全曲クリアーしてSpecialコースも安定してクリアーできるレベルまで持っていったけど、やっぱり最初は鍵盤数が多いのがネックで本当に苦労したよな~。ハイスピードなんてなかったし。

こんな感じですかね。音ゲーの創世記は本当にすごかったですよ。あのフィーバーはストIIが出たとき以来でしたね。自分の中ではBM98の方もかなりフィーバーしてましたがw。

次回は機会があればPS2弐寺(3rd&4th)でも話してみようと思います。